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金剛山麓に緑豊かな桃源郷「とんびの里」を創りたい、そんな想いに駆られた万年青年達の悲喜交々を、南河内の風土と一緒に紹介します。

2010年03月24日

白木陣屋(白木の殿さん)

中世中頃の当地は楠木一族の全盛時代とも言えるが、足利尊氏が室町幕府を開いた1336年以降は畠山氏の勢力下となり、近世にはいると細分化されて天領を含む諸藩の統治というのが南河内の大まかな歴史である。従って大好きな山城は、いわゆる楠公さん関係が大半であり、一部畠山氏関係の諸城となってくる。近世の城郭は全く存在しないと言っても過言ではない。いわゆる江戸時代の城下町というのが当地には全く見あたらないのだ。各藩は本拠地からの遠隔統治で、当地には代官所をおく程度。そうした中で陣屋(城の小型版と考えていいでしょう)を構えて統治にあたった藩がありましたね。いわゆる白木の殿さんです。


             陣屋の正門が古民家に移築されています。今も使用中です。
     白木陣屋(白木の殿さん)
                         所在地は白木の里
                白木陣屋(白木の殿さん) 

藩の名称を何と言ったのか不明ですが、始祖を石川総長とする石川氏で1660年頃に当地を拝領し伊勢神戸と併せて2万石を有したようです。以降、明治まで11代続き廃藩置県を迎えたようですね。領地は現在の羽曳野市南東部から河南町、千早赤阪村一帯のようです。陣屋は河南町の白木に置かれ、現在もその遺構が残っております。ここらは始終走り回っている場所なんですが、陣屋の跡とは想像もしませんでした。注意深く観察すると、小規模とはいえ確かに城郭の縄張りと感じられます。石垣や空堀或いは掘としての河川の活用など、いわゆる城塞としての機能をも持たせているようです。時代が中世とは異なり、城の役割が戦闘用の砦から統治用の政庁に変化してるにも関わらず、城の基本機能は押さえているようです。


                 陣屋を囲っていた石垣が今も残っています。
     白木陣屋(白木の殿さん)

     白木陣屋(白木の殿さん)

     白木陣屋(白木の殿さん)

始終眺めてはいても、観察はしていなかったようです。改めて注意深く歩き回りますと、小型版の城の形態がありありと残っていますね。画像で紹介させていただきますが、ただの農地としか考えていませんでした。注意力不足です。気づいたのは、古い資料をあさっていて偶然発見したもの、郷土史家の方々の緻密な探求に感謝したいと思います。歴代の石川氏の墓は当地の河南町内にあるようで、後日に訪問したいと願っています。     


             西側からの進攻を防御しようとした空堀のようです。
     白木陣屋(白木の殿さん)
             東側は崖となっており、自然の川を堀としたようです。
           白木陣屋(白木の殿さん) 

陣屋が築かれたのは江戸時代の初期でしょう。いわゆる山城の時代ではなく、世は平城へと移行してしまった頃です。陣屋も基本的には平城ですが、地形は平坦部北端の崖っぷちとなった場所をうまく活用しています。最悪の場合には城塞として活用する、そうした思想が根底にあったようです。南端のみが平坦地で、東と北は崖、西は空堀、当然侵入者は南からしか進攻できないでしょう。政庁として行政の要としつつも非常時を意識した陣屋作り、ご先祖様達の深い智慧と深慮遠謀に敬意を表する次第です。


             陣屋跡から白木の里を望む、地味豊かな農耕地帯です。
     白木陣屋(白木の殿さん)
           陣屋跡には立派な古民家が。城主の末裔の方でしょうか?
     白木陣屋(白木の殿さん)

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Posted by とんび at 05:13│Comments(0)里山に遊ぶ
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