2009年02月10日
半端物(者)
世に半端物(者)という言葉がある、数がそろわないとか端数といった意味合いらしいが、転じて間に合わぬ者といったよからぬ意味で使われる場合もあるようだ。組織にとっての半端者といった使い方であろう。農作業をやっていると、この半端物とよく遭遇する。商品栽培であれば尚更であろう。規格に合わない農産物や見栄えの悪い物などが該当する。廃棄処分が大半だろうが、どっこい田舎暮らしの半端者にとっては此の半端物も結構役に立つ。見栄えなど気にならないし、数が過不足でも一向に構わない。我が家の鍋にほうりこんでぐつぐつ煮込む分には何らの影響を及ぼさないのだ。一例を見てみよう。下記の画像をごらんあれ。
半端物の天王寺蕪です。これでも結構役に立ちます。
本日堀り上げた天王寺蕪の半端物である。栽培中は大小様々、出来のいい奴もあればあかんたれも存在する。程度のいい物から収穫するので、最後に残るのはどうしても中途半端な農産物となってしまう。無論、市場価値など存在しないしご近所への提供にも気が引ける。だが自宅消費分にはなんらの影響なし。もっぱら私宅の食卓にあがるのはこうした存在である。味については全く問題なし。産直の鮮度の高い野菜を無農薬状態で食している・・・・・・・・・なんとも贅沢な食卓なのかも知れない。
いまは端境期に相当するだろう。冬野菜もいいものは大半消費済みだ。春物野菜はまだの状態、春に植え付けの夏野菜も少々早い。畑にはめぼしい物がなんにもないなーの状態だ。小生の野菜畑を覗いてみよう。草ぼうぼうの畑に残り物の冬野菜がチラホラと残っている。
青梗菜 天王寺蕪
水菜
下仁田葱
こうした半端物の野菜達を上手に加工して食卓を賑わしてくれるのが山の神の腕前、ありがたい存在である。最近は厨房に好んではいる諸氏もいらっしゃるようだが、小生達の年齢層は厨房に入るべからずの世代かな?・・・・・・・単にいやがっているだけか。そんなこんなで畑の産物は残らず活用している。少々畑が存在するだけで、毎日が結構に楽しめます。田舎暮らしとまでは行かずとも、多少の農園は確保したいものですね。野菜の安全は?とか叫んでいるより、自前で作ったほうが早いですよ。
本日の収穫物。ベジタリアンではないが、野菜中心ですね。
それにしてもスーパー等に出かけると野菜類の見事さに驚き感心してしまう。サイズといい色つやといい形といい・・・・・見事なほどに統一されているのである。中にはパック詰めや箱入りのものもある。ここまでして陳列棚に並べるには相当な手間暇と薬剤の使用が必要なのではあるまいか。野菜の販売にそこまで必要なのかといつも疑問に感じてしまう。海外マーケットの写真等を見ると、籠などにてんこ盛りして販売されているのだが。
スーパーというものが広まって、売りやすい形、売れやすいきれいさなどが優先されるようになってしまい、誰もそれを不思議に思ってない様子。
生協でも、骨を抜いたぺらぺらのタチウオ、筋無しのささみ、真ん中だけ切った大根など、不思議なものが売られています。
そういうのは、なぜか美味しくもないのです・・・
スーパーや量販店に頼った生活、そのお店がある日突然閉鎖、街中でありながら陸の孤島となりかねないですね。何か昨今の経済状況を思わせるようで少々不安になってきます。
生き延びる為の方策、知恵が求められているような気がします。最悪の事態にならないことを願っていますが。
