2010年08月21日
楠公さんのご縁で
南河内の南端をうろついてますと、中河内や北河内を訪ねることは極めてまれとなります。通過することはあっても、立ち止まることは少ないのが実情でしょう。今回、四条畷をターゲットに訪問したのはまさに楠公さんのご縁でした。かねて暇を見つけては楠公さん関係の遺跡を巡っているんですが、四条畷訪問は遅きに失したようです。ここはかの有名な四条畷の合戦で楠木一族が全滅した場所、早くに訪ねるべきでした。楠公さんは既に湊川の合戦で戦死しておられたが、子息の正行公(小楠公)を総大将とする楠木軍団が北条方と戦い、結果的に全滅してしまった古戦場なのです。小楠公の墓所もこの地にあると聞き、探し回ったのですが発見出来ませんでした。
四条畷神社です。楠木一族が祭られています。

当時は既に東高野街道は整備されていたものと推察されます。南河内を本拠とする楠木軍団は、今の大阪奈良県境に聳える山脈に添った裾野を進軍して四条畷へと来たのでしょう。総大将の正行公は既に戦いに勝機無きことを悟り、遺書をしたためていたとも聞きます。僅か20代半ばの若者が重責を担い、一族をあげて職責を全うしようとした姿は今も範とすべきでありましょう。トップであった後醍醐天皇に対し、楠公さんは種々の献策(軍略)を具申したようですが、取り巻きの公家衆に疎んじられ却下されたようですね。今も同じかもしれませんが、シビリアンコントロールの美名の下に軍事の素人が軍略に口を出す、結果として勝機を逸してしまう事は少なくないようです。
四条畷市内の東高野街道。

小楠公の墓所は発見出来ませんでしたが、一族の和田賢秀公の墓所は判明しました。楠を植え込んだ閑静な墓所は丁寧に管理され、本日も近隣の方と思える方が清掃を為さっていました。地元の方々が丁重に墓所をお守りしておられるようですね。先に戦死された楠公さんも、敵方の総大将足利尊氏によって遺体は丁重に取り扱われ夫人の下に送り届けられたと聞きます。勝負は時の運、戦いに利あらずとも、職責を全うして倒れていった武人への想いと敬意は敵味方の区別は無かったのでしょう。日本人が本来兼ね備えている美学なのかも知れません。
楠木軍団の和田賢秀公の墓所。正行公のいとこだそうです。

四条畷には後の世に飯盛山城が築城されます。摂津・河内・大和の三ヶ国を睨んだ軸となる位置によるものです。この地が北条・楠木の衝突の場となったのも地勢上の要因があったのかも知れませんね。飯盛山城(典型的な山城)に登って眼下を見下ろすと、一面に広がる河内平野が見渡せます。かって河内湖と呼ばれた湖沼があった場所のようですが、今は完全な住宅地ですね。大陸や半島から渡来した人々も湖畔で生活の場を築いたのでしょう。この地は馬飼いの地とも呼ばれたそうですから、軍事力としての馬の生産も行われていたのでしょう。ひょっとしたら一部の方は楠木軍団に所属していたかも・・・・・・・・・・想像の世界は広がって楽しくなってきますね。
飯盛山城から望む四条畷の市街地方面
四条畷神社です。楠木一族が祭られています。

当時は既に東高野街道は整備されていたものと推察されます。南河内を本拠とする楠木軍団は、今の大阪奈良県境に聳える山脈に添った裾野を進軍して四条畷へと来たのでしょう。総大将の正行公は既に戦いに勝機無きことを悟り、遺書をしたためていたとも聞きます。僅か20代半ばの若者が重責を担い、一族をあげて職責を全うしようとした姿は今も範とすべきでありましょう。トップであった後醍醐天皇に対し、楠公さんは種々の献策(軍略)を具申したようですが、取り巻きの公家衆に疎んじられ却下されたようですね。今も同じかもしれませんが、シビリアンコントロールの美名の下に軍事の素人が軍略に口を出す、結果として勝機を逸してしまう事は少なくないようです。
四条畷市内の東高野街道。

小楠公の墓所は発見出来ませんでしたが、一族の和田賢秀公の墓所は判明しました。楠を植え込んだ閑静な墓所は丁寧に管理され、本日も近隣の方と思える方が清掃を為さっていました。地元の方々が丁重に墓所をお守りしておられるようですね。先に戦死された楠公さんも、敵方の総大将足利尊氏によって遺体は丁重に取り扱われ夫人の下に送り届けられたと聞きます。勝負は時の運、戦いに利あらずとも、職責を全うして倒れていった武人への想いと敬意は敵味方の区別は無かったのでしょう。日本人が本来兼ね備えている美学なのかも知れません。
楠木軍団の和田賢秀公の墓所。正行公のいとこだそうです。


四条畷には後の世に飯盛山城が築城されます。摂津・河内・大和の三ヶ国を睨んだ軸となる位置によるものです。この地が北条・楠木の衝突の場となったのも地勢上の要因があったのかも知れませんね。飯盛山城(典型的な山城)に登って眼下を見下ろすと、一面に広がる河内平野が見渡せます。かって河内湖と呼ばれた湖沼があった場所のようですが、今は完全な住宅地ですね。大陸や半島から渡来した人々も湖畔で生活の場を築いたのでしょう。この地は馬飼いの地とも呼ばれたそうですから、軍事力としての馬の生産も行われていたのでしょう。ひょっとしたら一部の方は楠木軍団に所属していたかも・・・・・・・・・・想像の世界は広がって楽しくなってきますね。
飯盛山城から望む四条畷の市街地方面

Posted by とんび at 05:13│Comments(0)
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