2009年02月16日
川上神社(村の氏神さん)
河内長野から奈良県の五條へと連なるサントーセン(国道310号線)沿いに旧の川上村が広がっている。典型的な山村で、石川の支流である石見川の河岸段丘に小さな集落が点在しているのだ。もっとも道路事情がいいのと車の発達で生活上の不便性は皆目ない。現在は大半の方が市街地へと通勤しておられるのではなかろうか。かっては林業の里であった。急な傾斜地に杉や檜が植林され、いわゆる河内材の産地となっている。木材取引所もすぐ近くに存在する位だ。ここはかって観心寺の荘園であったようで、いまもつながりが深い模様。翻って氏神となるのは川上神社である。神社の解説板によると、各集落ごとに祭られていたお社を合体して村全体の氏神とされたようだ。
サントーセンから見た川上神社。
もう少し接近してみると。
久方ぶりに覗いてみたが深閑として人気はなかった。神主さんもご不在のようで、祭事には何処からか来訪されるのだろうか。メディアに載っかるような大きな神社は別として、大半の神社では維持費の算出もままならぬだろう、ましてや神職の生活など困難というより不可能に近いのではなかろうか。
川上神社の神殿です。後背地の石塚は長慶天皇の陵墓とか。
神社の解説板。素戔嗚尊の説明が。
これも解説板によると、神社のご祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)であるとか。素戔嗚尊の乱暴狼藉に怒った天照大神(アマテラスオオミノカミ)が天の岩戸に隠れたという伝説はご存じだと思いますが、天の世界を追放された彼は地上界へと降臨します。どうも出雲の国のようで、ここから八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治する話や稲作の開始などへと話は広がって行きますね。詳細は専門書をご覧いただくとして、この地の神社がなぜ彼をご祭神としたのか不思議ですね。地形上からみて稲作とはちと関連が薄いようなので、八岐大蛇の正体を自然災害と考え救済を願ったのでしょうか。
ここにもありました。 夫婦杉へと続く石段。
旧の川上村は小さな集落の集まりと記述しましたが、石見川の川沿いに沿った棚田の一角に民家が点在する形態です。集落は下から見ると、河合寺、神ガ丘、寺元、鳩の原、大井、小深、石見川、の七か村でしょうか。現在は合併の合併で河内長野市となっております。農業と言えるほどの耕地はなく、やはり林業主体の村だったようです。川上神社には稚児相撲というおもしろい風習が伝わっているようです。10月の秋祭りの折に、1歳になった子どもを親が抱っこしてにらみ合いの勝負をするのだとか、該当者がおられるのか不明だが覗いてみたいですね。
山門前には無人の直売所も。1品100円~200円程度です。


金剛山麓に広がる小さな集落を訪ね歩きますと、結構おもしろい習俗や慣習が残っていたりします。カメラをお供にぶらりの一人旅もいいかも知れませんね。気分的には在野の素人民俗学徒?として・・・・・・・・・・・・・・。
氏子の方々も、神主さまの生活までは見られないでしょうし・・・時代の流れでしょうかね。
戦後60年余、経済至上主義で突っ走ってきたツケが回ってきたようですね。歴史とご先祖様とを、もう一度きちんと見直して適正な評価をやり直すべきでしょうね。
日本人は賢明な人種だと信じております。遠からず、ブレを復帰させる時期が来るものと祈念しています。
