2010年03月05日
近つ飛鳥風土記の丘
ここ何回か当地の山城についてレポートしていますが、無論、中世の山城だけが当地の歴史ではありません。それに遡る古墳時代の歴史も当然に存在するのだが、そこはそれ興味の赴くところに比重がかかるのはやむを得ないでしょうね。さて当地の古墳時代は、聖徳太子を基準に考察するのが早いかと思いますが、今回は趣向を変えましてお墓の話から。人の葬送は国によって又地域によって方法論が様々ですが、我が国では土葬から火葬への流れが一般的でしょう。先に実施された土葬ですが、一般庶民は穴を掘って埋める・・・・・・・それだけだったかと思います。ただ集団の長など権力や財力を持った者が亡くなると、墳墓を作って石棺等に入れ埋葬したようです。当然、儀式も執り行われたのでしょう。
こんな墳墓が無数にあります。典型的な円墳ですね。

近つ飛鳥博物館が梅林に埋もれています。
墳墓で大きな物は天皇や皇族の陵墓でしょうが、それ以外でも彼方此方に古墳と呼べるような遺跡が残っております。当地では古市古墳群が有名ですが、こちらは天皇家の陵墓といえるもので、それ以外では一須賀古墳群が著名であります。南河内郡河南町の東部の丘陵地帯で、かの聖徳太子の陵墓からは直線で僅かな距離です。多分、太子の周辺で補佐した豪族達の墳墓ではないかと想像しております。この一帯を「近つ飛鳥」と呼んでますが、「近つ飛鳥」と「遠つ飛鳥」については後日に別稿で触れましょうね。規模は天皇の陵墓ほど大きくはなく、自然石で石室を作り中に埋葬して円墳としたようです。場合によっては1室に数名の被葬者が葬られた様子も覗えるようですね。
代表的な墳墓です。大王的なクラスの方でしょうね。

地域は金剛山系の葛城山から伸びる稜線で、さらなる支稜をうまく活用して横穴式に墳墓を作ったようです。どうも一族毎に支稜を分けたのかも知れませんね。数個づつの墳墓が何カ所も固まって存在しています。どうやら古墳時代の墓地だったのでしょう。地形を見ますと耕作地帯と山地との接点に当たる部分です。別の言葉で表現しますと、人間界と動物界との境目に墓地を作ったように見受けられます。このことが何を意味するのかよくわかりませんが、南洋のとある部族では死者の頭蓋骨を村を見下ろす周囲の峠に祭る風習があるそうです。ひょっとしたら同じような習俗があったのかも知れませんね。
こんな浅めの石室もありました。

ここには石棺が残っていますね。1000年以上も前のでしょう。
ここらは近つ飛鳥の風土記の丘と呼ばれてまして、府立の博物館も存在してます。かの安藤忠雄氏が設計されたようで、一風変わった外観の建物が森の中に潜んでいます。周囲の遊歩道は梅林となっていて、丁度満開の状態でした。この梅林も、例の氏による「緑の回廊作り」の発想によるものでしょうね。雑木林と梅林と古墳時代の墳墓達・・・・・・・・・・なかなかに趣のある一帯です。弁当持参でのんびりと散策されるのには格好の場所かもしれません。博物館で知的好奇心を満足させる楽しみもあるようです。観光地ではありませんが、聖徳太子の遺跡巡りと兼ねて是非当地までお出かけ下さい。堪能されると思います。
梅林では丁度満開時のようでした。何度眺めてもいいものです。


古墳時代で終了ではなく、それ以前の土器石器時代の当地も当然に存在します。ここらは苦手な領域ですが、又、日を改めまして探索して見ましょうか。南河内、なかなかに奥行きの深い地域でして、時間がなんぼあっても足りないようです。
中央部の樹木の背後の森が、聖徳太子が仕えた推古天皇陵です。
こんな墳墓が無数にあります。典型的な円墳ですね。

近つ飛鳥博物館が梅林に埋もれています。

墳墓で大きな物は天皇や皇族の陵墓でしょうが、それ以外でも彼方此方に古墳と呼べるような遺跡が残っております。当地では古市古墳群が有名ですが、こちらは天皇家の陵墓といえるもので、それ以外では一須賀古墳群が著名であります。南河内郡河南町の東部の丘陵地帯で、かの聖徳太子の陵墓からは直線で僅かな距離です。多分、太子の周辺で補佐した豪族達の墳墓ではないかと想像しております。この一帯を「近つ飛鳥」と呼んでますが、「近つ飛鳥」と「遠つ飛鳥」については後日に別稿で触れましょうね。規模は天皇の陵墓ほど大きくはなく、自然石で石室を作り中に埋葬して円墳としたようです。場合によっては1室に数名の被葬者が葬られた様子も覗えるようですね。
代表的な墳墓です。大王的なクラスの方でしょうね。

地域は金剛山系の葛城山から伸びる稜線で、さらなる支稜をうまく活用して横穴式に墳墓を作ったようです。どうも一族毎に支稜を分けたのかも知れませんね。数個づつの墳墓が何カ所も固まって存在しています。どうやら古墳時代の墓地だったのでしょう。地形を見ますと耕作地帯と山地との接点に当たる部分です。別の言葉で表現しますと、人間界と動物界との境目に墓地を作ったように見受けられます。このことが何を意味するのかよくわかりませんが、南洋のとある部族では死者の頭蓋骨を村を見下ろす周囲の峠に祭る風習があるそうです。ひょっとしたら同じような習俗があったのかも知れませんね。
こんな浅めの石室もありました。

ここには石棺が残っていますね。1000年以上も前のでしょう。

ここらは近つ飛鳥の風土記の丘と呼ばれてまして、府立の博物館も存在してます。かの安藤忠雄氏が設計されたようで、一風変わった外観の建物が森の中に潜んでいます。周囲の遊歩道は梅林となっていて、丁度満開の状態でした。この梅林も、例の氏による「緑の回廊作り」の発想によるものでしょうね。雑木林と梅林と古墳時代の墳墓達・・・・・・・・・・なかなかに趣のある一帯です。弁当持参でのんびりと散策されるのには格好の場所かもしれません。博物館で知的好奇心を満足させる楽しみもあるようです。観光地ではありませんが、聖徳太子の遺跡巡りと兼ねて是非当地までお出かけ下さい。堪能されると思います。
梅林では丁度満開時のようでした。何度眺めてもいいものです。


古墳時代で終了ではなく、それ以前の土器石器時代の当地も当然に存在します。ここらは苦手な領域ですが、又、日を改めまして探索して見ましょうか。南河内、なかなかに奥行きの深い地域でして、時間がなんぼあっても足りないようです。
中央部の樹木の背後の森が、聖徳太子が仕えた推古天皇陵です。

Posted by とんび at 05:15│Comments(0)
│里山に遊ぶ
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