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金剛山麓に緑豊かな桃源郷「とんびの里」を創りたい、そんな想いに駆られた万年青年達の悲喜交々を、南河内の風土と一緒に紹介します。

2010年07月03日

河内鋳物師

河内鋳物師(かわちいもじ)なる言葉は存じていたが、その実態については白紙の状態であった。何か鉄をいらって(加工して)生活用品でも作っているんだろう・・・・・・・・・・・程度の気楽な認識しか持ち合わせていなかった。ふとした奇縁で黒姫山古墳との接点が出来、ついでにいろいろ調べて見ると、ご当地が鉄製品のとんでもない一大産地であったことが判明した。無論、歴史上のある限られた時期の話で、現在その面影は皆目みられない。美原町(現在は合併して堺市美原区)の大保と呼ばれる地域なんだが、かっては大保千軒とも呼ばれ、鉄器製造業者の多寡を誇ったそうだ。時代的には平安朝末期から室町朝の中頃まで。


          黒姫山古墳、大量の鉄製武器が出土したようです。5世紀中頃の築造。
     河内鋳物師
               鉄製武器と一緒に大量の埴輪も出土したようです。
     河内鋳物師

何でこの地に鉄器製造業が・・・・・・・誰しも不審に思われるだろうが小生もその一人。当地に砂鉄が産出したとの話も聞かないし鉄鉱石があるわけでもない。思うに当時の鉄器産業とは現代でいうと原子力産業にも匹敵するハイテク技術ではなかっただろうか。当然、純国産の技術で賄えるものではなく、渡来系の技術者集団が想像される。そこでキーになるのが所在位置である。難波の津と呼ばれた国際港から都の飛鳥に至る竹之内街道(国道1号線)がすぐ近くを通るのと、当時の海岸線は今よりかなり内陸に近く、情報や技術が大陸や半島から入手しやすい立地条件にあったからではなかろうか。


             河内鋳物師の代表作、西日本各地に存在するようです。
            河内鋳物師

ここで先ほどの黒姫山古墳が大きな意味を持ってくる。この古墳、敗戦直後の昭和22年頃に発掘調査されたようだが、24個もの鎧や鉄兜或いは剣などが出土したようだ。5世紀中頃の築造とされ、当地の豪族丹比氏のリーダーを葬ったのではと推理されている。大量の鉄製武具は既に鉄加工の技術が存在した若しくは導入できるだけの背景が存在したと考えられる。ひょっとしたら丹比氏自身が渡来系の氏族だったかも知れず、鉄製武器で武装した軍事集団だったかも知れない。そうした下地があった上での鉄器産業であろう。


             黒姫山古墳から出土した鉄製武具、軍事集団の可能性も。
     河内鋳物師 

上述したように平安朝末期から興隆し室町期の中頃には消えていく。主に鉄製鍋や釣り鐘等がメインとなる商品のようだった。需要と保護者を求め、技術者が全国各地へと散らばっていったようだが、堺の火縄銃制作と大量販売などは彼等の末裔の活躍によるものかも知れませんね。
美原町を訪ね歩いたのですが、鉄の加工については多くの資料が残っていましたが、鉄そのものの生産或いは搬入はどうしていたのか、そこらは謎のままです。釣り鐘や鍋の製造は鉄を溶かして流動状態にして鋳型に流し込んだようです。原材料の鉄はどうして確保したのか、まだまだ調査が必要なようですね。
    

          生活用品や農具など民生品の生産が主な役割だったようですね。
     河内鋳物師

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Posted by とんび at 05:13│Comments(0)里山に遊ぶ
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