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金剛山麓に緑豊かな桃源郷「とんびの里」を創りたい、そんな想いに駆られた万年青年達の悲喜交々を、南河内の風土と一緒に紹介します。

2008年03月09日

下赤阪城にて

本日は下赤阪城を訪ねる。ここも楠木正成の要塞群の一つだ。城好きにもいろんなタイプがあるが、小生はもっぱら山城を訪ね歩く。壮麗な建物を誇る行政機関としての平城には、あまり関心がない。無骨な作りの、いかにも要塞といった戦闘用の山城に心惹かれる。たいてい急な坂道を登った山の上にあるのが難点だ。かって、つれあいと郡上八幡城を訪ねた時など、息を切らして山道を登った。岐阜城はロープウエイがあったので楽だったのだが。



下赤阪城にて 

山城の特徴で天守閣や石垣などが残っている事例は少ない。ここ下赤阪城も例外ではなく、城趾を示す石碑のみだ。場所は赤阪中学校の裏手にあたる。現在は農地として活用され、往時を忍ぶよすがもないが、地形から配置を想像する。千早赤阪村の役場の上手にあたる部分が本丸跡のようだ。












鎌倉幕府軍との戦闘で多くの将兵が亡くなった。哀れに思った楠木軍は、敵味方の区別無く丁重に弔って供養したという。死者を埋葬した跡に「寄せ手塚・味方塚」の墓碑が建てられた。「寄せ手塚」、と敵方を先に記してあるところに、楠木正成の慈悲と哲学を感じ取る。今なお郷土の英傑として、多くの人々に慕われるのも無理のない話であろう。メンバーがリーダーの言に従い、時として死をも覚悟するのは、決して命令・服従の関係によるものではないであろう。明治の初期、西南の役で若者達に殉じた西郷隆盛にも、ある意味同じ哲学があったのではないだろうか。


下赤阪城にて   下赤阪城にて


城趾からは金剛山の勇姿が望める。どこから眺めても心惹かれる山の姿だ。日本では、富士山に次いで登山者が多い山と聞く。山頂にあがると、登山回数の表示板があり、何百回・何千回もの実績を誇る猛者達の氏名が掲示されている。一番多い方は、毎日登り続けて40年程にもなられるとか。


下赤阪城にて



眼前には、赤阪村ののどかな田園風景も広がっている。大都市に近い場所にも、こんなに素敵な空間が広がっているのだ。携帯用ガスコンロとコーヒーを持参し、あぜ道に座り込んで、ゆっくりとした時の流れを楽しみたいものである。


下赤阪城にて























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Posted by とんび at 05:18│Comments(0)里山に遊ぶ
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